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中山雄一朗 トムはジェリーを殺せない

Img_4213 一見して、「彫刻的」であると思わせるその性質はどこに由来するのか。中山雄一朗の彫刻は、この印象によって、その「彫刻性」を揺るぎないものにしているようにみえる。いうなれば、「彫刻的」に造形することこそ、この作家の戦略なのだといえるのかもしれない。今日希有であると感じさせる粘土の量塊性、ボルトが穿たれた木材がもたらす構造と均衡、棕櫚縄がその両者をすみずみまでを統治するその力学的な緊張感、すべてが、その作品に、これは彫刻であるという刻印を刻み付けている。

しかし同時に、個々の作品がそれぞれに異なるキャラクターをもって、まるで生物のような佇まいを見せていることに注意しておきたい。具体的にいえば、立体を支持する部分、床面と彫刻とが接しあう部分が否応なく生物の脚を想起させてしまうのであり、したがって胴体が、重心を支える中心がそこから連想的に導かれてしまうのである。つまり、彫刻的であることと、生物的であることが、中山の立体においては両立しているのだ。中山の作品はその意味で彫刻的な自律性をもっていると同時に、床面から動き出しそうな身体性を、さらにいえば、そこから動かんとする意志のようなものを漲らせているのである。

「意志」という言葉を使ったのは、たとえば生物が移動しないことは死を意味するからである。死を避けるためには、まず動かなければならない。これは生物の宿命である。すなわち何ものかを得るために移動することこそ生物の生存の条件であり、またその意味で生物の条件だったといえるだろう(18年間木の上で動物が通りかかるのを待ち続けるダニは別としても)。そして生物が移動するとは、まずバラバラの部位によって構成された肉体が、ひとつの完全性をもっていることによって可能になる(もちろん、完全でない肉体など存在しないのだが)。つまり移動することが生物の本性だったのだとすれば、移動とは、身体的な充足によって可能になるのだから、ひいてはその能力が個体の個体性ー自律性を保証しているのである。

Yakayama_image_03_2 つまり中山の彫刻が展示空間のなかで明らかに主張している彫刻の個体としての能動性とは、この自律性(個体性)に端を発するものではなかったか。その彫 刻においては単に「彫刻的」であるということがその自律性を感じさせただけではなく、逆に、生物然とした個々のキャラクターが肉体的な充足に結びつくから、長らく自律性(人間の立像)に導かれてきた彫刻の伝統を連想させたのである。しかし問題にすべきはその自律的な性質だけではない。今回実際にその作品を観て驚かされたのは、そのバリエーションの豊富さである。限定された4つの構成要素を用いながら、しかしその組み合わせ、形態の決定のされ方は、個々にまったく異なった様相を見せており、順々にその組み合わせを見ていくことに、ひとつの楽しみが見いだされるほどだ。

ここで唐突に、「展開された場における彫刻」という副題のついた美術批評家ロザリンド・クラウスの〈彫刻のポストモダン〉というエッセイについて簡単に述べておきたいと思う。クラウスはこの論文において、彫刻の歴史は場所の記憶とともに生起するモニュメントの歴史であったが、ロダンにおいて固有の場というものが消滅し、またブランクーシにおいて台座が、またアースワークと呼ばれる一連の動向のなかで彫刻の像自体が水平的な地面に解体されていったとしている。
だが、ほんとうにクラウスは彫刻の自律性がポストモダンの彫刻の出現によって消滅したのだといいたかったのだろうか。おそらくそうではなく、クラウスはむしろ、彫刻が場所を消し、台座を消し、像を消してなお、その自律性は解消されないこと、むしろそれは地面に吸収されながら、いまだに彫刻と呼ばれるカテゴリーによって記述し得ることを示唆していたのである。つまりクラウスはその歴史的な図式によって、彫刻が「自律しないこと」の不可能性をきびしく突き付けていたのではないか。

すると、中山の彫刻はむしろ彫刻の自律性を、単に数学的な組み合わせによるバリエーションだけではなく、生物化された個々に異なるキャラクターによっても複数化させていくのである。つまり、もし彫刻が自律しないということが不可能であるなら、自律性を複数化することがひとつの抵抗であるかのように。
Img_4190_2 ところでクラウスのエッセイでは、その最後に、意外にもジョエル・シャピロの作品が言及されていた。シャピロの作品は建築を模した立体が、壁面から突き出た細く長い台座のうえに密着して建っているというものである。しかしいわばこの作品が前景化させているのは、ミニチュア化された風景であり、彫刻はアースワーク以後の彫刻の不可能性を、あえてレトリカルに矮小化されたイメージによってみせていると言えるだろう。不思議な符号だが、中山の個展会場にも、シャピロを思わせる、壁から突き出た細長い台座に乗った小さな立体があった。展示中、作家はそれを動かしていたが、つまりそれは作品が台座に接着されていないことを意味する。その意味では、やは り彼の作品はあくまで消滅することを嫌う、ということなのだろう。


中山雄一朗
トムはジェリーを殺せない
2007年9月21日(金)〜10月8日(月)
GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVE
Tel:03-3351-0591
11時〜19時 
会期中無休
JR四ツ谷駅四ツ谷口より徒歩3分 新宿区四谷1-5

words: 沢山遼

2007-10-04 at 06:31 午前 in 展覧会レポート | Permalink

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