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高柳恵里展

「憑き物が落ちる」 


art191_01_1展示風景


■このDM(2番目の写真)に胸を打たれた。たくさんの意図やイメージに紛れても見つけられるような存在感がすでにあった。なんだか憑き物がとれるように気持ち良かったのだ。

■考えてみれば、子供の頃から、イメージや意味や機能がまつわりついたものを大量に見ている。美術を見出して「ものそのものを見る」ということが頭ではわかっているつもりでも、自分の心身に張り付いたそれらは、はがしてもなかなか消えない。例えば意識しているつもりでも、ものや自然に対して、あるいは他人の言動に対して、自分のイメージや期待感で捉えてしまうことはある。やはりまだ私は、いろんなものに捕われている。

■クルマの写真作品は、クルマを良く見せるための広告が「変だな」と感じて、まずはたくさん見たそうだ。広告は、(ほとんどプレゼンのための)コンセプトや物語性が強い。クルマひとつ取っても、その不自然な仕組みの中で(例えば家族像とかダンディズムとか)大量のイメージとともに見ている。高柳は、クルマの姿をよく見せるために、同じ手順を踏みながら、逐一「イメージ付け」の方法論を無視して、即物的な方向を選んで写真を撮った。機能がすべて見えるように愛車のドアを開き、しかし、ちょっとした傷といったものは見えない角度にした。構成や構図を決めることなど、言葉にすると同じ過程を踏むように見えるが、明らかに選ばれているものが違う。

■「何をしようとしていたのかなあ」と彼女は笑う。眼の前のものは至ってクリア—だった。それをまた像(イメージ)である写真に落とし込むこととは何か。しかし、写真はこれまであった写真とも確かに違っている。

■靴は、床の上に脱ぎ散らかしたかのようにセッティングされている。その見え方、立ち方がアクリル板と針金で固定されている。ちょっと履いたしわなど、ほんの少し記憶の匂いがする。それでも演劇的な一歩手前だ。

■カーテンの一部分に縫い付けられたカーテン。その部分は「(光を)さえぎる」という本来の役割を強くもっている。しかし周囲は人が通ると揺れるし、透けている。

■「その時のその場で、それ以外の全てのものを要因としながら、全てのものに対立するかのようにある。新しく生まれたものは、孤立している」というのが、作品として「成った」ことを見極める地点。孤独を受け止め、自立した先に有機的な関係性が生まれる。彼女は「鉄」とか「石」とか素材そのものは使わない。いつも機能のついたものを生まれ変わらせている。

■彼女は1962年生まれ。もう18年近い発表歴をもつ。曖昧なところを探り続けてきたタフさとともに、いつも瑞々しい。険しさに対峙していることは伝わるのだが、でも楽しそうなのだ。そして、腑に落ちる部分の「腑」が洗われたように、私も「美術を見ていてよかったなあ」と少し身軽になった気がした。


高柳恵里展
2003年10月18日(土)〜11月4日(火)
ギャラリー人
東京都武蔵野市吉祥寺本町2-26-12クノス吉祥寺2F
(吉祥寺駅北口より東急左手を直進、藤村女子高の先、左手)
12:00〜20:00(最終日17:00まで)
水曜休
TEL.0422-23-0010

words:白坂ゆり

art191_01_2「scene1」以下2003年


art191_01_3「scene2」


art191_01_4「scene3」


art191_01_5「シューズ」


art191_01_6「カーテン」

2003-10-18 at 09:08 午後 in 展覧会レポート | Permalink

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